未来は、叶ってから感じるものじゃない|未来で味わいたい感覚を「今」に取り入れる
突然ですが、
「思わずニヤけちゃう未来」
を想像してみてください☺️
どこにいますか?
誰といますか?
何が見えますか?
どんな音が聞こえますか?
どんな香りがしますか?
そのときのあなたは、 どんな表情をしていますか?
そして
その未来のあなたは、どんな氣持ちですか?
安心している?
嬉しい?
自由?
満たされている?
大切な人と笑い合っている?
先日、そんな「少し先の未来」を
イメージする時間をひらきました。
そこで改めて感じたことがあります。
それは、
未来は、叶ってから初めて
幸せを感じるものではないのかもしれない。
ということでした。
肌がボロボロだった頃、私は半年後の未来を楽しみにしていた
27歳の頃。
私は、肌の状態が
大きく崩れたことがあります。
朝起きても、
滲出液で目が開けづらい。
何もしていなくても
皮膚がポロポロと落ちていく。
髪も抜けていく。
鏡を見るのも辛いくらい、
身体も心も苦しい時期でした。
けれど、不思議なことに。
そんな状態の中にいながら、
私の中にはもう一人、
未来を楽しみにしている私もいました。
「この過程を経て、半年後に
エステに行けるくらい変化していたら、
この経験そのものが、
いつか誰かに分かち合える
本質的な學びになるかもしれない。
そのときのエステ、
楽しみすぎる〜!✨️」
現実、まだ肌はボロボロです。
目の前の現実は、
何も変わっていません。
それなのに、
半年後の自分を思い浮かべると、
ちょっとニヤけている私がいました。
「エステに行けたらいいな」
だけじゃなかったんです。
その未来の私は、
「ここまで来たんやなぁ」
と自分の身体を愛おしく感じ、
経験したことにも意味を感じ、
誰かにこの経験を
分かち合えることを喜んでいる。
私はまだその未来に
たどり着いていなかったけれど、
その未来で感じるはずの喜びを、
すでに少し味わっていました。
そして、その後
自分の身体や暮らしと向き合い続け、
8ヶ月後には実際にエステへ行き
全身マッサージを受けていました。
肌の状態も大きく変わっていました。
そのとき、
「あぁ。あのとき思い描いていた未来に、
ほんまに来たんやなぁ」
と感じたことを
今でも覚えています。
「未来が叶ったら、安心できる」と思っていたけれど…
この経験を思い出したとき、
一つ、氣づいたことがありました。
私たちは、
「これが叶ったら幸せ」
「この問題がなくなったら安心できる」
と、
“出来事”の向こう側に、
欲しい感情を置いていることがある
のかもしれません。
そして、これは
子育てや學びの中でも
起こることがあるように思います。
たとえば、
「子どもが学校へ行けるようになったら、安心できる」
「テストの点数が上がったら、ほっとできる」
「自分から勉強するようになったら、安心できる」
「志望校に合格したら、親子で喜べる」
「進路が決まったら、やっと肩の力を抜ける」
もちろん、
学校へ行くことも
學ぶ力をつけることも
志望校への合格を目指すことも
どれも大切なことです。
私自身、
子どもたちと一緒に目標を立て、
どうすればそこへ近づけるかを考え、
一歩ずつ伴走しています。
だから、
「結果なんてどうでもいい」
という話ではありません。
ただ、その目標のもう一つ奥に、
「その未来で、親子は何を感じていたいんだろう?」
という問いがあってもいいのではないかと思うのです。
合格した未来で、本当に欲しいものは何だろう?
たとえば、
「志望校に合格してほしい」
という願い。
その未来を
もう少し具体的に想像してみます。
合格発表を見て、
「やったー!」
と親子で笑っている。
お子さんの顔には、
「私、頑張ったな」という誇らしさがある。
お母さんやお父さんも、
「よく頑張ったね」
と笑っている。
そのとき本当に欲しかったものは、
「合格」という文字だけでしょうか。
もしかすると、
「自分にはできる」と思える自信
頑張ってきた自分を認められること
お父さんやお母さんに、自分の頑張りを見てもらえている安心
親子で一緒に喜べること
なのかもしれません。
だとしたら、
それらは全部、
合格発表の日まで
お預けにしなくてもいい。
今日、
問題を一問解けたときに、
「さっき自分で考えてたなぁ」
と伝えることもできる。
昨日より10分長く取り組めたことを、
「頑張ったね」
と一緒に喜ぶこともできる。
未来で親子が感じたいものの“一滴”を、
今日の親子間で感じることはできる。
私は、そう思っています。
「学校へ行けたら安心」の、その奥には?
学校についても、
同じかもしれません。
「明日は学校へ行けるかな」
「このままずっと行けなかったらどうしよう」
お子さんのことを大切に思うからこそ、
親御さんが不安になることもあります。
そして、
「学校へ行けるようになったら、
きっと安心できる」
と思うこともあると思います。
そんなとき、その先まで想像してみる。
学校へ行けるようになった未来で、
私は、何に安心しているんだろう?
子どもが笑っていること?
安心できる居場所があること?
誰かとつながっていること?
「この子なら大丈夫」と信じられていること?
もし、そうだとしたら。
その全部は難しくても、
その未来にあるものの“一滴”なら、
今日、感じられることがあるかもしれません。
学校へ行かなかった朝にも、
「今日はどうしたい?」
と氣持ちを聞く。
何もしたくない日には、
一緒にお茶を飲む。
好きなことを話しているときには、
ただ楽しそうに聞く。
親御さん自身も、
一人で抱え込まずに
安心して話せる人に話してみる。
そうやって、
未来で欲しい「安心」を、
学校へ行けた日のご褒美にするのではなく、
今日の親子間にも味わっていく。
そんな関わり方も
できるのだと思います。
未来を見ることは、「今の自分」を知ること
だから私は、
未来を思い描くことは、
ただ願いを叶えるためだけのものではないと
感じています。
未来を見てみることで、
「私は、本当は何を大切にして生きたい?」
が見えてくる。
子どもの未来を考えることで、
「私は、この子に本当は何を受け取ってほしい?」
が見えてくる。
そして、
その答えが少し見えたら、
未来まで待たなくてもいい。
「その未来の私は、
どんな氣持ち?」
「その未来のわが子は、
どんな顔をしている?」
「そのときの親子の間には、
どんな感覚がある?」
そして、
「その一滴を、
今日の私から渡すとしたら?」
と考えてみる。
未来と同じ状況を、
今日つくる必要はありません。
ほんの一滴でいいんです♪
輝きは、「できた未来」に初めて生まれるものじゃない
輝きあい舎では、
「一人ひとり、すでに輝きがある」
ということを大切にしています。
合格したから、
輝くのではない。
学校へ行けるようになったから、
価値が生まれるのでもない。
自分から勉強できるようになったから、
初めて素晴らしくなるのでもない。
今ここにいるその子の中に、
考える力も
選ぶ力も
育っていく力も
その子だけの輝きも
すでにある。
だからこそ、
未来のために
今の自分やわが子を否定するのではなく、
「未来で大切にしたいものを、
今日の親子にも少しずつ♪」
そんなふうに歩んでいけたらと
思っています。
未来は、
叶ってから初めて
幸せになる場所ではなくて
未来を思い描くことで、
今日をどう生きたいかを
教えてくれるもの
なのかもしれません。
あなたが思い描く、
「思わずニヤけちゃう親子の未来」は
どんな景色でしょうか。
そのとき、
お子さんは
どんな顔をしていますか?
あなたは、
どんな氣持ちで隣にいますか?
そして――
その未来にあるものを、
今日ひとつだけ受け取るとしたら
何を受け取りますか?💐
